・店主 千葉憲二について
略歴 | |
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1951年 | 宮城県気仙沼生れ |
1973年 | 京橋の日本料理「ざくろ」入社 |
1976年 | 熱海の料亭 「小いずみ」にて修行 |
1979年 | 「ざくろ」 副料理に就任 |
1986年 | 銀座「江島」 料理長に就任 |
1989年 | 銀座「江島」総料理長に就任 |
1992年 | 「ちばき屋」 葛西本店オープン |
2010年 | 「銀座㐂いち」オープン |
2018年 | 「銀座㐂いち」 世界TOP1000レストランLa Liste選出 |
千葉は4人兄弟の末っ子として宮城県気仙沼に生まれ、当時家は祖父の跡を継いだ父が水産関係の仲買卸をしていた。幼いながらに映画俳優みたいだった、おしゃれでハイカラ、豪快な父だったという記憶が焼き付いている。
父が他界したのは千葉が7歳の時、享年42歳だった。
それでもそれまでの父の記憶が千葉の生き方を決めたのだと言わせるほど、憧れの男だった。
・料理人の道へ
料理人を目指したのは「一杯のチャーハン」だった。高校時代、友人たちにチャーハンを振舞ったらとても喜んでくれたことがきっかけだ。
大学を卒業した後は、紹介で東京・京橋の日本料理「ざくろ」に就職。当時は15歳、16歳の兄弟子がいて、縦割りの厳しい世界だった。2年間は皿洗いばかり。3年たったころ、熱海の料亭「小いずみ」に出向した。そこでのさらに厳しい修行を終え、ざくろに戻り、29歳の時に副料理長となった。
大学まで出たのに料理人になるのか、と怒っていた親戚たちも、手のひらを返したように称賛してくれるようになった。「ざくろ」という名前には大きな力があった。
しかし、ここで新たな挑戦。
「ざくろ」の名がなくても通用するのか。とある企業の社長に誘われ、当時名もない銀座「江島」へ転職するのだった。
順風満帆に料理人としての人生を歩み続け、「江島」の総料理長にまで昇りつめたが、独立したいという思いがあったことからその肩書をあっさりと捨ててしまう。
周りの人は驚いたに違いない。なぜならラーメン屋として独立するのだから。
・ちばき屋
行列のできるラーメン屋でラーメンを食べた時、「全然おいしくない、俺だったらもっと旨い一杯がつくれる」、そう思ったことがきっかけとなってちばき屋をオープンするのだった。
ラーメン屋は1杯のラーメンが旨いかどうか。これほど純粋な料理も他にない。それに立地も問わない。下町に開業したちばき屋はやがて100人単位の待ちができ、TVの取材がくるほどの有名店となっていた。
日本料理の料理人が作り出すラーメンは一味違う。スープはもちろんすべての具材にこだわりを持ち、思いを込めた。「半熟煮玉子」はいまでは当たり前のラーメン具材だが、これは千葉が生み出したものだ。料理人として頂点を極めたからこその視点でつくられたラーメンは孤高の一杯というに相応しいものとなった。
・再び銀座へ
「六十歳になる頃には自分の技術をすべて出し切れる店を開きたい。たとえば場所は銀座かもしれない」
五十歳の時に出版した本の中にある言葉。
憧れの父が好きだった銀座。いつしか銀座で自分の店を持つことが夢となっていた。その夢が実現したのは2010年。「銀座㐂いち」のオープンだ。店名の「 㐂いち 」は父の名前から。
夢が実現したことの喜びを噛みしめ、感謝の思いを一品一品に込めながら、今日も千葉はカウンターでお客様の来店を待っている。
「ま、遊びにきてくれや」